橋下徹大阪市長は一方で英雄視され、また他方ではハシズムなどと言われ、独裁者呼ばわりされています。
このことに関して、作家・井沢元彦氏が以下のように書いています。
橋下徹は独裁者か? という問いに端的に答えるなら「独裁者ではない」というのが答えであり、これは私の意見ではなく客観的な事実である。
なぜならば独裁者とは議会制民主主義を否定し、軍事力等の強圧的手段で反対者を弾圧し自己の権力を確立している者のことを言うからである。例えば北朝鮮の金日成とその後継者の金正日・正恩親子、あるいは一党独裁しか認めず、集会の自由や言論の自由を厳しく弾圧している中国共産党のトップは独裁者と言ってもいい。
しかし橋下徹氏は大阪府知事になった時も現在の大阪市長になった時も、選挙という民主主義で法治国家の日本での厳正なルールに基づき出馬し、不正もなく当選し現在の地位を確立したのである。これがどうして独裁者か?
あるいは独裁的手法などというあいまいな言葉を使う批判者もいるが、橋下氏は軍隊の力で民衆を抹殺したわけでもなく秘密警察を使って民衆を投獄したわけでもあるまい。すべて法治国家日本での憲法も含めたルールの範囲内で行なっていることだ。これを批判するのは民主主義の否定である。
橋下氏のやることは選挙を通して大阪府民あるいは大阪市民の支持を得ているということを忘れてはならない。これを否定したいなら、市長選や市議会選挙で橋下氏の意見に反対の対立候補を立てて争うのが、民主主義のルールというものである。それに負けたからといって「独裁者」などという「民主主義に対する犯罪者」と同義の言葉を使って、橋下氏を批判するのは負け惜しみにしても人間としての道を外れている。
例えば人を殺してもいないのに、他人からいきなり「人殺し」と言われたら、人は激怒し、その言葉を発した連中に撤回と謝罪を求めるだろう。同じことだ。「独裁者」などという「民主主義殺し」に等しい言葉で橋下氏を批判している人間は、直ちにこの言葉を撤回して、橋下氏に謝罪すべきであろう。
※SAPIO2012年5月9・16日号
この書かれていることは、真っ当な気もします。しかし、この人は政治学を学んだ人とは思えない勘違いをされています。
橋下徹氏は大阪府知事になった時も現在の大阪市長になった時も、選挙という民主主義で法治国家の日本での厳正なルールに基づき出馬し、不正もなく当選し現在の地位を確立したのである。これがどうして独裁者か?
と書かれていますが、それをいうならヒットラーをリーダーとするナチス党も、ドイツの民主主義的な選挙によって選出されて独裁的になって行ったのであって、民主主義的な選挙で選ばれた政治家だから独裁者に当たらないという理屈は飛躍しています。
すべて法治国家日本での憲法も含めたルールの範囲内で行なっていることだ。
この点に関してもどうなんでしょう?大阪市立学校の先生が式典で君が代を歌っているかをチェックして、歌わない教師を処罰することが憲法第19条の思想・信条の自由を侵害しているかどうかは議論の余地があることであり、一概に憲法を遵守していると断言出来ないと思います。
また、このかたはそもそも民主主義ということの現代的な意味を理解していないように思います。「民主主義」とは狭義では、多数者に支持されて、政治を行う制度ですが、現代的な意味での民主主義とはいわゆる「立憲民主主義(自由民主主義)」を意味します。
つまり、狭義の民主主義+自由主義の両方を兼ね備えていないと真の民主主義とは言えないのです。
多数決で決まったからとゴリ押しするのではなく、常に少数者の人権・自由に配慮してバランスをとっていくことこそ真の現代的な民主主義であって、数にものを言わすだけであれば民主主義とは言えないのです。
たしかに橋下氏を北朝鮮の政治と同等視するのでは橋下氏に失礼であります。
しかし、橋下氏のことを批判する人を非国民のように理論的に揶揄するのでは、民主主義にとって一番大切な言論の自由を抑圧することになります。
よく問題になっているのは、橋下氏の極端とも言える「独裁的手法」なのであって、その手法が人気であるがゆえにそこにすり寄る人間も少なくなく、橋下氏の手法が批判にさらされることすらよしとしない風潮はそれだけで、独裁者を生んでいく土壌を日本人自身で作っているということを忘れてはならないと思います。
「君が代」は君(=天皇)の代が永遠に続けというような意味ですので、それに抵抗のある人にまで歌うのを強要することが民主主義だとは私には思えませんけどね。
posted by ミムさん at 09:31| 岡山

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